天井知らずの快楽〜寝溜めと食べ溜め〜
昨日、お腹が空いた故に生死を彷徨った。
これまで食べてきた様々な絶品料理の走馬灯すら走った。
悲しきかな、ドイツにはコンビニたるものが(ほとんど)ない。
それに加え閉店法があるため日曜日には基本的に全てのスーパーが閉まる。
労働者的にはありがたいかもしらんがわし的にはお腹が減りすぎて死にそうなのだ。
開けてくれ、頼む。
という願いは聞き入れることはもちろんなく、ただ空腹と戦うしかなかった。
こんな時に日本食が恋しくなる。
ラーメン。焼肉。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。ラーメン。焼肉。
日本であれだけ食べたラーメンはいつにも増して哀愁を漂わせてこちらを仰いでいる。
By the way, 問題は”あれだけ食べた”というところである。
一般的に食事や睡眠といった”快楽”は貯めることができない。
こちとら寝溜めとかいう概念をサラサラ信じていない。
夜が更ければ眠たくなるし、ラーメン屋の前を通ればラーメンが食べたくなる。
いかにもこれが自然の摂理というもの、としか理由付けれない。
寝溜めや食い溜めというものは不可能である。
快楽はいつまでも快楽であり続けるのだ。
だからこそ快楽は一時的であり、刹那なものでなければならない。
その刹那を重ねることを人間の最低限の生活というならば、生きることの大きな目標を達成するための小さな目標である、と考えれるのではないだろうかという結論に至った。そうでもしなければ空腹という現実にたちむかわなければならないからな。ああ。
今日も明日もこれからの未来も寝て食べる。そんな簡単な目標におとしこむのである。
目下、空腹ゆえに窮地に立たされているわしは生きるというよりもはやその前の段階でつまづいているので、人間の必要最低限の快楽が成せてないので非常に情けないのでは。
いや、もっと情けないことといえば、スーパーが閉まる前日(土曜日)に買い物に行かなかった愚かさである。
何と言っても、”買い溜め”はできるからだ。